1987年に創業した株式会社エーティーケーは、今年35周年を迎えます。
そこに至る経緯は沿革のページにてご紹介させていただいていますが、実態はそれほどキレイな歴史ではなく、紆余曲折に満ちたものでした。
3名で始めた企業も30名近くの社員を抱える規模となりましたが、現在在籍する社員のほとんどが在籍年数10年以内と短く、過去の経緯を詳しく知る人も少なくなったので、先日、改めて株式会社エーティーケーの歴史を振り返る時間を設けてみました。
以下は、その際に語られた話です。
1987年に秋山壽一が東大阪市水走に創業した当時、本社工場は母材在庫(6m)と切断機を置くと4tトラックがギリギリ入るスペースしかない小さな工場(約150㎡)でした。10tトラックが納品に来た際には、車体が倉庫を飛び出して目の前の道路(中央大通り)を一部封鎖してしまうため、もれなく交通整理もセットの作業となっていました。また、その工場の横に設置された簡易プレハブが当時の本社事務所でした。そのプレハブは、現在、現場事務所として使用されています。
その後、着々と取扱量が増えていくなかで本社工場だけでは仕事を消化することが出来なくなり、第2工場・第3工場と増設していきます。ただ、当時は手元資金が少なかったため、借りる事ができた倉庫は非常に使い勝手の悪い特殊な形状の倉庫ばかりでした。
そのような状態で10数年経過した頃、最初の倒産危機が訪れます。当時、売上は順調に計上していましたが、作業効率が悪いため生産性が低く、利益の確保に苦慮していました。その上、最も頭を悩ませていたのが仕入です。資産がほとんどない状態から創業したため企業としての信用が低く、仕入窓口となる商社の確保のために複雑な商流を使わざるを得ない状況でした。その結果、自転車操業の状態が10年以上続きます。また当時はバブル崩壊後の銀行の苦境もあり、金融機関の引き締めが非常に厳しい時期でもありました。そのため、銀行側から融資を断られる状況に陥ってしまったのです。
そのような苦境の中、ある取引先の社長に銀行との橋渡しをしていただき、何とか一命をとりとめる事ができました。しかしながら、このままでは何も解決せず、ただの延命処置に過ぎません。そこで事業の効率化を目指して3つの工場を集約するための移転を決意します。