ウラ歴史(2020~2022年(現在))

2020年11月、新しく代表取締役に山谷啓司が就任致しました。新型コロナウイルスが蔓延し、経済が混乱する中でのトップ交代は、異例と言えば異例です。しかしながら、このような状態だからこそ、このタイミングでやっておかなければならない事がありました。それは、原点回帰です。

創業してから30年以上経過する中で、いつの間にか暗黙のルールや根拠のない作業、意志決定の複雑化など、無意味で理解不能な仕組みが所々に存在するようになっていました。それは様々な苦難を乗り越える過程で生まれた副産物のようなもので、その影響は社員それぞれの「働く意味」や「目指す方向性」も曖昧にしてしまっていました。そこで掲げたのが、当ホームページのトップページに載っている「Our purpose」です。

私達が事業を行う目的は、そこに関わる全ての人の「人間としての成長」を促す事。主役は設備ではなく人間。設備に何が出来るのかではなく、人として何が出来るのかを考える。と書くと最近の流行のように感じますが、実は単なる原点回帰です。

そのために意思決定の簡素化、給与体系および福利厚生の改革など様々な仕組みを整理し、その上で2030年に向けた目標と道筋を共有しました。

ここまでウラ歴史をご覧になった方はわかると思いますが、当社が今まで生き残って来れたのは偶然です。様々なお取引先様の御支援、市場の変化、社員の成長などが積み重なった結果であり、決して全てを計画的に行えて来たわけではありません。

そして、それを後世の社員達に伝えるためにこのウラ歴史を編纂させていただきました。後世の社員達が壁にぶつかった時、先人の行いを神格化せず、安易な手法に頼らず、目の前の課題と真っ直ぐに向き合ってきた我武者羅さを参考にしていただければ幸いです。

最後にいつも弊社を支えて下さっているたくさんの人達に感謝を申し上げて、ウラ歴史を一旦閉じたいと思います。

いつもたくさんの御支援ありがとうございます!!

今後ともよろしくお願い申し上げます。

ウラ歴史(2011~2019年)

少ロット多品種の受注が順調に増えていく中で一つの問題が浮き彫りになってきます。それは「横持ち」です。横持ちとは、工程から工程へ移る工程間の移動作業のことです。当時、当社では切断加工以外の加工をほぼ外注で行っていたため、複雑な加工(穴あけ・曲げ・溶接・溶断など)を行う際は、外注先へ材料を移動させる横持ち運搬が多発していました。これを解消するために取り組んだのが社内加工の拡充です。ところが、ここで「人・モノ・金」の壁が立ちはだかります。

当初、高価な工作機械を購入する資金もなく、職人を雇うほどの安定した仕事量もなかった為、まずは安い中古機械を購入し、自分達で加工にチャレンジすることから始めました。ただし、素人が加工を行うため「出来ること」と「出来ないこと」の区別が曖昧です。また自分達と年齢が変わらないような古い機械を購入していたために説明書が付属されていない事が多く、機械の操作方法も手探りな上に加工の許容スペックも全くわからないままでした。その上、研究開発をしてから受注活動を行う余裕は全くなく、「とりあえず受注してからやり方を考える」有様でした。結果、夜な夜なクラブ活動のノリでチャレンジを繰り返す日々が続きます。

そのような日々が続く中、「この加工、本当にできますか?」と不安そうに質問をするお客様が現れます。いつものノリで「できますよ!」と答えても「本当にできますか?」と返してきます。どうやら、それは通常の機械のスペックでは加工できないものでした。ところが、私達は説明書も読んだことのない素人です。オーバースペックな加工も機械を改造して出来るようになっていました。

その風習が「機械に合わせて仕事をする」のではなく「仕事に合わせて機械を使いきる」文化へと繋がります。今では中古機械を購入する機会が減りましたが、新規に工作機械を導入する際は当社仕様に改造してもらうのは当たり前。また意図する機械を販売していない場合は、自ら機械を製作することもありました。その結果、工作機械のスペックを使い切ることができ、他社では困難な加工も出来るようになっています。

チャンネルの鋭角(30°)切断 ※ロボットプラズマ溶断

そのような受注を続けているうちに「エーティーケーなら何とかするんじゃないか?」と言ったイメージが付き、お客様自身が出来るかどうかわからない加工の見積をどんどん当社に投げかけてきてくれるようになりました。仮にできない場合でも、加工できない理由を説明する事で仕様変更や設計変更に繋がり、場合によっては設計段階からご相談をいただく事例も出てきました。

この「とりあえずやってみる文化」は、その後の成長に大きな影響を与えます。ある時は某メーカーとの新製品共同開発。ある時はさわった事もない材質の材料加工。ある時はOEM生産引受など…。その都度、失敗を恐れずにチャレンジし続けた結果、2010年に設定した売上と利益の数値目標を1年前倒しで達成することができました。また、そのような雰囲気が社員のモチベーション向上に繋がり、離職率もほぼ0%になり、社員数も順調に増えてきました。

つづく

ウラ歴史(2009~2010年)

鉄パイプおよびステンレスパイプの販売店「ドットジェイ」

リーマンショックの到来によって物流が停滞し、パレット用資材の受注は激減しました。リーマンショックの到来は、私達を地獄の日々から解放する反面、将来への不安を突き付けてきました。

時をさかのぼること数年前、まだリーマンショックの足音すら全く聞こえていない頃、当社はネットショップ「ドットジェイ」を開店します。その発端は、ホームセンターを訪れた際に「なぜ、パイプはこれだけのサイズしか売っていないんだろう?」と思ったからです。私達は日々100種類以上のサイズのパイプを販売しています。ところが、そこにあったのはわずか数種類のサイズだけでした。

そこで「パイプを欲しいと思ったことはない?」と身近な人達に聞いて周りました。ところが、回答は「ない」が100%。ただ、DIYなどをした話を聞いた際に「そこにパイプを使えばいいんじゃない?」と提案すると「そうかも…」と答える人が多い事に気が付きます。要するにパイプの「需要がない」のでななくて、手に入らない前提だから「選択肢にない」ということでした。そこでダメで元々の軽いノリでショップを開店します。

すると、この店舗が予想以上の反響を得ました。今でこそ、様々な企業がネット上でパイプの材料販売を行っていますが、当時は当社の独占販売に近い状態でした。結果、ダメ元で始めた店舗が毎年150%以上の成長を続け、わずか数年で黒字化します。そして、この店舗の存在が、その後の当社の成長に大きな影響を与える事となります。

ネットショップを構築する過程で最も悩んだのが「価格設定」です。業界の慣習でもある相場価格に慣れ親しんでいた私達は、それまで値付けに悩むことがほとんどありませんでした。しかし、ネットショップの顧客は鉄のことを全く知らない人達です。業界の慣習に関係なく、「買ってもらえる価格」を提示しなくてはなりません。そのため、価格決定の思考をプロダクトアウト型からマーケットイン型へ反転させる必要がありました。「買ってもらえる価格」は、必ずしも低価格とは限りません。「価格=価値」もしくは「価格<価値」であることが需要です。恥ずかしながら、それまではそのようなことを考えた事もなく、逆にそれが普段の商売を見つめ直すきっかけとなります。

売上を確保するためにどのような仕事も引き受ける日々が続く中で、いつの間にか受注内容が少ロット多品種化していきます。それまでの流れであれば、手間暇がかかる少ない受注に振り回されてジリ貧になっていたのでしょうが、ネットショップ開設の経験を糧に少ロットでもきっちりと利益を得る方法を確立することが出来ていました。また、「今後は以前のような状態に戻ることはない」と考え、工場のレイアウトを量産対応型から少ロット対応型に変更します。このレイアウト変更は工場の中身を丸々90°回転させる大掛かりな変更でしたが、この時に工場移転時の反省とノウハウが活かされます。また、このレイアウト変更の経験がその後の「flexible layout system(*1)」を可能にしました。(*1 受注状況に合わせて工場内のレイアウトを柔軟に変更するシステム)

結果、リーマンショックの翌々年(2010年)には経常利益がリーマンショック前まで回復し、それまでとは全く違う形で事業が成り立つようになりました。

量産重視(左)から単品重視(右)にレイアウト変更

また、同時に危機感を募らせた20~30代の社員が中心となり、今後の成長に向けた10年計画を作成します。10年後(2020年)の売上目標を約2倍(2009年比)、利益目標を約10倍(2009年比)とする野心的な目標を実現するために3年毎にクリアするべきステージを設定して、レイアウトだけでなく、社内システム、顧客ターゲット、受注内容、加工レベル、品質意識など、ありとあらゆる分野を見直しました。

その意識改革が次のステップへと大きく繋がります。

つづく

ウラ歴史(2005~2008年)

西暦2000年を過ぎて世の中が21世紀の到来に慣れ始めた頃、中国の急成長を耳にするようになります。元々は1992年頃から始まったの経済の改革開放政策が発端でしたが、世界の工場として存在感を示し始めたのが、ちょうどその頃でした。とは言え、当時の中国では複雑で精度が必要な部材の製造は難しく、そのような部材は日本から送る必要がありました。そのため日本から中国の工場へ精密部品を運ぶための鋼製輸送用パレットの需要が激増します。

もともと当社は仮設資材の鋼管(足場管等)の切断加工を事業の柱として発足しました。創業から10年以上経過していた当時は仮設資材の切断加工をほとんど行わなくなっていましたが、大量の材料を捌くノウハウは残っていました。そこで大量に消費されるパレット用鋼管の切断加工の依頼が舞い込みます。その扱い量は現在の取扱量の3倍以上で、大型車が頻繁に納品と出荷を繰り返す状況でした。

至る所にあった出荷待ちの山

この荷動きが当社を救います。仕入れ窓口となる商社が消滅した状況で、この荷動きを支えるために造管メーカー主導で販売(仕入)窓口となる商社を立て、商流を確保する動きが形成されてきました。その結果、各メーカー毎の仕入れルートが確立され、リスクが分散されて仕入窓口の問題が一気に解消される事となります。同時にこの仕入窓口の分散は販売窓口の拡大をもたらしたため、当社にとっても都合の良いものでした。

反面、仕事は多忙を極めました。毎日、深夜まで作業をするのは当たり前。家に帰っても寝るだけの日々が続き、ほぼ思考停止状態。仕事の忙しさに変な充実感を感じつつ、納期に追われ逃げ場のない状況は私生活を無機なものにしていました。

ところが、その地獄のような日々が突然終わりを告げます。

リーマンショックの到来です。

つづく

ウラ歴史(2000~2004年)

2000年6月、現在の地(大阪市此花区常吉)に移転しました。当時、移転を行うにあたって、3つの問題がありました。一つは資金がない。次に休業できない。最後に人手が足りない。

この問題を解決する方法は一つしかありません。社員総出の休日突貫工事です。さすがに一度に全部の工場を移転する事は出来なかったので、週末毎に各工場一カ所ずつ移転作業を行い、ひと月かけて全ての工場の移転を完了しました。ですが、移転に要した時間は実質6日間。在庫の移動、機械の設置、在庫置場のラック製作など、ほとんどの作業を自分達だけで行いつつ、業務も一切止めずに行われました。この夜逃げのような移転経験がその後に大きく活かされます。

新工場(2000~)

この移転に伴い、退職された方も数名いました。元々、定年退職した職人の方々を採用していたため高齢の社員が多く、大阪の東の端から西の端への移転は通勤を困難にしてしまいました。そのため移転先では職人の人数が半減し、営業人員が工場作業を兼務する必要が出てきました。この状態が営業と職人の壁を取り払い、「加工知識の共有」に繋がります。

また時間に追われながら作業を行うため加工時間にシビアになり、加工内容を時間に換算する習慣が植え付けられました。これが図面を見たただけですぐに加工費を算出できる「値付け技術」の習得に繋がります。同時に安価な材料の提案や加工方法変更による納期短縮やコストダウンなど「全体最適の提案」も徐々に出来るようになってきました。

そのようなバタバタした状況が数年続いた後、またもや危機が訪れます。それは当時盛んに言われていた商社不要論を背景にした商社の再編です。そして、その再編に当社の仕入窓口となっていた商社が巻き込まれてしまいました。その結果、与信管理基準が変わり、当社と取引が出来なくなりました。そもそも仕入窓口の確保に四苦八苦していた財務状況でしたから、当然と言えば当然です。

このままでは仕入が出来ずに潰れてしまいます。しかしながら、私達は敢えて替わりとなる商社を探す事はせず、自然の流れに任す選択をしました。

その背景には、隣国の急成長が関係していました。

つづく

ウラ歴史(1987~1999年)

1987年に創業した株式会社エーティーケーは、今年35周年を迎えます。

そこに至る経緯は沿革のページにてご紹介させていただいていますが、実態はそれほどキレイな歴史ではなく、紆余曲折に満ちたものでした。

3名で始めた企業も30名近くの社員を抱える規模となりましたが、現在在籍する社員のほとんどが在籍年数10年以内と短く、過去の経緯を詳しく知る人も少なくなったので、先日、改めて株式会社エーティーケーの歴史を振り返る時間を設けてみました。

以下は、その際に語られた話です。

1987年に秋山壽一が東大阪市水走に創業した当時、本社工場は母材在庫(6m)と切断機を置くと4tトラックがギリギリ入るスペースしかない小さな工場(約150㎡)でした。10tトラックが納品に来た際には、車体が倉庫を飛び出して目の前の道路(中央大通り)を一部封鎖してしまうため、もれなく交通整理もセットの作業となっていました。また、その工場の横に設置された簡易プレハブが当時の本社事務所でした。そのプレハブは、現在、現場事務所として使用されています。

その後、着々と取扱量が増えていくなかで本社工場だけでは仕事を消化することが出来なくなり、第2工場・第3工場と増設していきます。ただ、当時は手元資金が少なかったため、借りる事ができた倉庫は非常に使い勝手の悪い特殊な形状の倉庫ばかりでした。

そのような状態で10数年経過した頃、最初の倒産危機が訪れます。当時、売上は順調に計上していましたが、作業効率が悪いため生産性が低く、利益の確保に苦慮していました。その上、最も頭を悩ませていたのが仕入です。資産がほとんどない状態から創業したため企業としての信用が低く、仕入窓口となる商社の確保のために複雑な商流を使わざるを得ない状況でした。その結果、自転車操業の状態が10年以上続きます。また当時はバブル崩壊後の銀行の苦境もあり、金融機関の引き締めが非常に厳しい時期でもありました。そのため、銀行側から融資を断られる状況に陥ってしまったのです。

そのような苦境の中、ある取引先の社長に銀行との橋渡しをしていただき、何とか一命をとりとめる事ができました。しかしながら、このままでは何も解決せず、ただの延命処置に過ぎません。そこで事業の効率化を目指して3つの工場を集約するための移転を決意します。

つづく