2000年6月、現在の地(大阪市此花区常吉)に移転しました。当時、移転を行うにあたって、3つの問題がありました。一つは資金がない。次に休業できない。最後に人手が足りない。
この問題を解決する方法は一つしかありません。社員総出の休日突貫工事です。さすがに一度に全部の工場を移転する事は出来なかったので、週末毎に各工場一カ所ずつ移転作業を行い、ひと月かけて全ての工場の移転を完了しました。ですが、移転に要した時間は実質6日間。在庫の移動、機械の設置、在庫置場のラック製作など、ほとんどの作業を自分達だけで行いつつ、業務も一切止めずに行われました。この夜逃げのような移転経験がその後に大きく活かされます。
この移転に伴い、退職された方も数名いました。元々、定年退職した職人の方々を採用していたため高齢の社員が多く、大阪の東の端から西の端への移転は通勤を困難にしてしまいました。そのため移転先では職人の人数が半減し、営業人員が工場作業を兼務する必要が出てきました。この状態が営業と職人の壁を取り払い、「加工知識の共有」に繋がります。
また時間に追われながら作業を行うため加工時間にシビアになり、加工内容を時間に換算する習慣が植え付けられました。これが図面を見たただけですぐに加工費を算出できる「値付け技術」の習得に繋がります。同時に安価な材料の提案や加工方法変更による納期短縮やコストダウンなど「全体最適の提案」も徐々に出来るようになってきました。
そのようなバタバタした状況が数年続いた後、またもや危機が訪れます。それは当時盛んに言われていた商社不要論を背景にした商社の再編です。そして、その再編に当社の仕入窓口となっていた商社が巻き込まれてしまいました。その結果、与信管理基準が変わり、当社と取引が出来なくなりました。そもそも仕入窓口の確保に四苦八苦していた財務状況でしたから、当然と言えば当然です。
このままでは仕入が出来ずに潰れてしまいます。しかしながら、私達は敢えて替わりとなる商社を探す事はせず、自然の流れに任す選択をしました。
その背景には、隣国の急成長が関係していました。